八方美人の頭の中

家庭のこと、仕事のこと、日々考えていることについて人目を気にせずゆるく綴ります。

イスラム国による事件について考える

イスラム国(IS)による後藤健二さんの拘束・殺害事件は本当にショッキングで、特に後藤さんのご家族のことを思うと、本当に心が痛みます。

ただ、この件の取り上げられ方や、第三者の便乗としか思えない異様な盛り上がり方には強い違和感を感じます。
日本のマスメディアは、この件をただ感情的な美談にしようとしていないでしょうか。
後藤さんは志ある勇敢なジャーナリストだったのだと思います。また、誰かが戦場の様を伝えなければならないという意見もわかります。でも果たして、今回のような事態になる可能性を踏まえても、伝えなければならないことでしょうか?

「自己責任」とは言っても、実際には自分1人の責任では到底済みません。現に今回も、日本とヨルダンの2ヶ国が巻き込まれ、振り回されています。身代金がISの新たな軍資金となり、さらなるテロ行為につながる可能性もありました(日本が要求通りに身代金2億ドルを払うことはなかったのでしょうが)。そうなると、影響は2ヶ国では済みません。
亡くなった後藤さんを批判するつもりは毛頭ありませんが、政府の再三の勧告を退け、そんなリスクを侵してまで知らなければならない(伝えなければならない)情報があるとわたしには思えません。それともこれも、最近流行りの報道の精神、知る権利の軽視になるのでしょうか。


フランスのシャルリー・エブド紙襲撃事件についても、「表現の自由」が履き違えられているのではないかと感じることが多々ありました。
わたしが見た同紙の風刺画には、風刺を通り越してイスラム教全体を侮辱していると感じられる、率直に言って下品な作品がいくつかありました。勿論、侮辱的だからと言って暴力行為が許されるわけではありません。亡くなった方々は心からお気の毒だったと思いますし、襲撃という手段に出た時点で犯人達に同情の余地はありません。

だけどその一方で、あの風刺画を描いた人達は、もしキリストが同じように扱われたらどう感じるのだろうか、と考えるのです。そのへんの感覚は、八百万の神を持ち、自然や物に神が宿ると考える日本人には到底理解できないことなのかもしれませんが。

わたしは表現者でも何でもない会社員の端くれですが、「表現の自由」が「何をしたって表現者の勝手」という意味に解釈されているのだとしたらそれは間違っていると思います。「自由」は常に「責任」とワンセットで、責任の伴わない自由はただの無法です。「表現の自由」のように、長い歴史の中で人々が苦労してようやく獲得したタイプの自由は、ことさら「責任」を意識して、大切に扱わなければならないのではないでしょうか。


表現の自由」「報道の自由」「知る権利」はどれも人間にとって大切なものですが、決して、何物にも勝る無敵の大義ではない。この御旗を掲げれば何でもありというわけではないということを、特にメディアは意識すべきだと思います。

この事件を機に、伝えることを使命にある種の「英雄」になることを目指して危険を冒す人達が出てこないことを、また、連日の報道に影響を受けて、ISに参加しようとする人達が出ないことを強く願います。

それから、ISはイスラム教の代表ではないということも、きちんと伝えてほしいと思います。大多数のイスラム教徒は、ISに共鳴していないどころか、イスラムを貶める行為に憤りを覚えていると思います。(ヨルダンのカサースベ中尉は焼殺されましたが、焼殺というのはイスラム教の教義に反することで、例え戦時中であっても禁じられていると報道で知りました)

9.11の直後にも、イスラム系だというだけで、罪のない人達が偏見や差別にさらされました。
そんな風に場外乱闘が起きて世界が混乱することこそ、ISの思うツボ。
今回はそんなことがないよう、わたし達のような一般市民、情報の受け手側が、感情的になりすぎず、冷静に情報を取捨選択することが何より必要ではないでしょうか。